奢侈は常に資産の不平等に比例している(モンテスキュー「法の精神」より)

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奢侈は常に資産の不平等に比例している。国家内で富が平等に分配されていれば、奢侈は決して存在しないであろう。(中略)富が平等に分配された状態にあるためには、法律が各人に生存上必要なものしか与えないようにしなければならない。それ以上与えられると、ある者は消費し、ある者は蓄積し、不平等が成立するであろう。(モンテスキュー「法の精神」より)

社会の様々な問題を解決する手段として、ソーシャルビジネスというものがある。また、シェアリングエコノミーもそのひとつか。しかし、これらをもってしても、この国の諸問題の根本的解決には至らないのではないだろうか。

なぜなら、ソーシャルビジネスも「ビジネス」であるからには有償だ。つまり、そのサービスを受けるためには、おカネを払わなければならない。今後、ソーシャルビジネスやシェアリングエコノミーに対してですら、おカネを払えない階層が増えてくるのではないだろうか。それだけ、この国が直面する状況は厳しい。

余裕のある者が、余裕のない者に対し「分け与える」。言葉を加えれば「無償で分け与える」。そうすることでしか諸問題の解決は見られないのではないだろうか、という気がしている。

冒頭のモンテスキューの言葉を借りれば、必要以上に消費せず、必要以上に蓄積せず、余剰を分け与えるということになろうか。

蛇足的な例を2つ。

私は生まれも育ちも東京の下町だ。下町といえば、たまたま台所に醤油が切れていたら隣の家にもらいに行く。隣の家は喜んで醤油を分けてあげるというイメージがあろうか。まさにその通り。私の子供のころは日常茶飯の光景であった(今はあまり見られないが)。

また、私の両親は東北の寒村の出身だ。いまでも頻繁に、クルマの運転をできる者が、運転できない年寄りに「町まで行くならクルマで乗っけて行くよ」という言葉をかける。もちろんおカネなどもらわない。

この何ということもない2つの事例は、大げさにいえば、シェアリングエコノミーを超える概念ではなかろうか。なぜなら、シェアリングエコノミーは有償であるが、2事例は無償(タダ)であるからだ。シェアリングエコノミーやソーシャルビジネスを超越する「互助の経済活動」が、日本にはひっそりと存在していた(或いは、現に存在している)。

余裕のない企業は別として、余裕のある大企業は、「分け与える」という視座から企業活動というものを再考してみてはいかがだろう。それが救国の端緒となると思われるからだ。そして、この夢想が現実のものとなったとき、「企業」という組織の中身も、だいぶ変容していることであろう。